早慶対抗の駅伝があった!


昭和14~22年 全7戦の記録



早稲田アスレチック倶楽部
伊達一雄

2023年6月1日


2024年に100回目を迎える早慶対抗陸上は歴史と伝統のある大会だが、トラックではなくロードで早慶対抗駅伝があったことを知る人は殆どいないと思う。

この事実を教えてもらったのは慶應OBの太田(旧姓鈴木)重男さんである。慶応側の資料のコピーも頂いたが、昭和14年から終戦を挟んで7回も早慶駅伝が行われていたのを初めて知り驚いた。何故なら早稲田には七十年史と百年史があるが、早慶対抗陸上の記録は記載されているが早慶駅伝の記録は全く残っていない。
時代背景を考えると戦争の影響が大学生活にも及び試合どころではない時に早慶が駅伝で競ったという事実は両校競走部の歴史に残すべきだと考えた。しかし、資料が少ないので調査が進まなかったが、実はやる気を出すきっかけとなった出来事があった。

2022年の第98回箱根駅伝をテレビ観戦していたら復路小田原の中継点でWとKのユニフォームの選手が同時に襷渡しをした。種明かしは襷を受け取った慶応の1年生田島公太郎はオープン参加の関東学生連合チームで、山下りで遅れた早稲田と同時のスタートになったのである。スポーツ報知にもその写真が掲載されたが、早慶が箱根駅伝で並んで襷渡しのシーンを観て改めて昔を振り返った次第である。
 この文は『慶応義塾體育会競走部史』を一次資料に、大会を後援した朝日新聞の記事などを参考にした全7回の詳細を掘り起こしたものである。何とか成績と出場選手の名前は判ったが完全とは言えないので是非後輩たちに補完してほしいと思う。


「早慶対抗駅伝」を知って最初に気が付いたのは早慶両校が箱根駅伝に不参加を決めた翌年に開催されたということである。この出来事が発端になっているので、私が生まれた年である昭和13年の第19回箱根駅伝に遡って話を進めていきたい。

まず早慶不参加を当時の新聞はどう伝えたか。

読売新聞-早慶両大学が参加せず十二校出場 とだけ。
朝日新聞-今回は早慶両チームがトラック種目の強化に余力を注ぐ事となり輝く伝統を擲って参加しなかったので一抹の淋しさがあったが と記している。

次にこの事実を関係者はどう見たのか。

1978年に刊行された『箱根駅伝六十年』の著者で自身も2回箱根を走っている山本邦夫(東京教育大)はこう書いている。「本大会は早・慶両校が駅伝は中・長距離強化の見地から見て不適当であるといってとりやめたため」

次に箱根駅伝を主催する関東学連はどう見ているのか。

『箱根駅伝80回大会記念誌』2004年刊行
第19回大会は小見出しに早・慶不参加とあり、こう記している。
「早稲田・慶応両校が、駅伝は長距離強化の見地から不適当として出場せず、12校の参加となった」

『箱根駅伝90回記念誌』2014年刊行
第19回大会の小見出しは早・慶不参加でこう記している。
「早稲田と慶応の両校が『駅伝はトラックの中長距離選手を強化するうえで不適当』という駅伝有害論を唱え、歩調を合わせるかたちで出場を辞退した。有害論の背景には、当時駅伝コースの東海道や箱根路のほとんどが砂利道で、故障が懸念されたことや頭数確保のため、しばしば専門外の選手を起用されることへの疑念もあるように思われる」

ここでは有害論の背景にも言及されており、これが現在の関東学連の見解とみていいのではないかと思う。では早慶両校の競走部史はどう記しているか。

『早稲田大学競走部七十年史』早稲田アスレチック倶楽部編 1984年刊行
1937年(昭和12年)の本文にこう記す。
「箱根駅伝は慶大の主張する『駅伝は中長距離強化の点から見て不適当である』にわが校も同調、不出場と決めた」『慶応義塾體育会競走部史』七十五周年記念
参加しなかった箱根駅伝のページの第19回にこう記す。
「塾は、中・長距離をトラック種目の強化に重点を置くとの方針から、早稲田と同調し、参加を取り止めた」
早稲田と慶應の主張は表現に微妙な違いがあるが、両校とも相手に同調したと記したのは苦慮した結果ではないかと推測する。

という訳でこれ以上の詮索はしないが、その翌年に早慶駅伝が誕生している。
早慶駅伝がなぜ実現したかについては資料を見つけるに至らなかった。同じように大会を主管した組織についても不明で、日時、コース、距離、記録については大会を後援した朝日新聞の縮刷版を参考にしたことをお断りしておく。
全7回の個人成績については「早慶対抗駅伝の記録」を見てほしいが、ここでは関連のある早慶陸上や箱根駅伝についても記した。



第1回 昭和14年(1939)2月5日
朝日新聞には早慶断郊競走とあり、コースは神宮競技場前~武蔵野往復の26マイル(41.8K)。5区間で1・5区が7マイル、2・4区が3マイル、3区が6マイル、早慶2チームずつで争われた。
優勝  早稲田大学A  2時間15分57秒
2位  慶応大学A   2時間21分56秒
3位  早稲田大学B   <記録不明>
4位  慶應大学B   <記録不明>

これが全ての情報である。因みに第19回箱根駅伝は1月8~9日に開催されており、また前年箱根を走りこの大会に出たのは早稲田の3人だけである。


第2回 昭和15年(1940)1月28日
朝日新聞には第2回早大対慶大駅傳競走とあり、コースは多摩御陵前浅川橋を出発神宮橋に至る5区間45Kのコースで争われた。
優勝   早稲田大学A  2時間43分33秒
2位   慶応大学A  2時間44分42秒
3位   早稲田大学B  <記録不明>
4位   慶応大B  <記録不明>

新聞によると勝負はアンカーで決まったがその差は1分09秒という接戦だった。第1回の経験者は早稲田が2人、慶応が3人だった。因みに第20回箱根駅伝は1月7~8に挙行、明治と法政も不参加で出場は10校。


第3回 昭和16年(1941)1月26日
朝日新聞に本社後援早慶駅傳競走の予告記事が出た。
神宮水泳場前~日野町ガード下往復の8区間58マイル(約92.8K)のコースで早慶各1チームで争われた。
 優勝  早稲田大学  3時間53分30秒
 2位  慶應大学  3時間59分26秒

翌日の新聞には各区間の選手名と記録が載っているが、戦評は「コースが試合前々日に急に変更されて区間が短くなったため出場選手は調子がわからず苦戦の体であったが、慶大が予想以上に善戦し早大を脅かしたことは特筆すべき」と書かれている。
因みに朝日新聞の縮刷版ではスポーツは「運動」として扱われていたが、この年から「體力」に変更になった。
戦争の影は益々濃くなってスポーツ界にも重くのしかかっている。


第4回 昭和17年(1942)1月11日
神宮水泳場前~浅川駅前往復 8区間 58マイル
朝日新聞に早慶鍛錬駅伝 11日に挙行という記事あり。
 優勝  慶応大学  5時間22分00秒
 2位  早稲田大学  5時間24分53秒

その差は2分50秒という接戦で、大会翌日の紙面には慶大雪辱す、本社寄贈の優勝楯を獲得とある。慶応の部史には「アサヒスポーツ」の戦評を転載し、こう記す。

「今回、慶応チームは例年にない充実した陣容で雪辱の一戦を挑み、早稲田また専門外の選手を起用し悲壮な排水の陣で臨んだが、双方の実力は正に伯仲、勝敗は予断を許さないものがあった」
その結果は2分51秒差で慶応が勝ち「ここに積年の恨みをそそいだ」、慶應にとってこの優勝は「早慶戦」と名付くる競技では17年振りと記している。

この時1区を走った早稲田の石田芳正の写真が先に述べた『箱根駅伝六十年』に載っていたので紹介する。
余り鮮明ではないが石田は鉢巻をしておりスタートの写真と思われる。手に巻いているのが襷なのかどうかは分かりにくい。おそらく実写だが誰が撮ったか不明、しかし早慶駅伝として残る唯一の写真である。
石田はこの後3月29日に報国団武装行軍競走に出場したと日記に記している。
本郷の帝大(東大)前~戸田橋~浦和高校往復のコースで40キロ以上あったのは間違いないだろう。銃と砂袋入りの背嚢(背嚢)ゲートル着用でほぼ歩兵の完全軍装で「苦の一字あるのみ」「全くの疲労困憊の果てに死するが如し」と回想している。
早稲田は11人の部員が参加したが、早慶駅伝を走った8人も含まれている。
その一人野田佳穂は日本インカレのハードル2種目で優勝しているが、昭和19年にルソン島で戦死、早慶駅伝アンカーの岡崎俊夫も戦死している。
実は1月11日の朝日新聞にはベルリン五輪棒高跳のメダリスト大江季雄(慶応大学)がマニラで戦死したことが報じられている。
また5月4日神宮競技場で行われた第20回早慶陸上では大江の他に鈴木聞多、阿武巌夫のオリンピアンを含む戦死した早慶10選手の遺影が掲げられて入場した。
こんな悲しい時代があったことを両校とも忘れてはならないと肝に銘じたい。


第5回 昭和18年1月24日
コースは同じで8区間58マイル
 優勝  慶応大学  5時間17分22秒
 2位  早稲田大学  5時間30分56秒

記録から見れば慶応の圧勝である。
慶応の部史には5区を走った落合静雄の遺稿の要約が載っているので紹介する。

~慶応は去年に続き本年も勝利の感激に浸ることが出来たが、とりわけ9月に卒業していく荘田主将に優勝のはなむけが出來て、部員一同感慨深いものがあった~

実は1月5~6日に靖国神社~箱根神社往復関東学徒鍛錬継走大会が行われた。優勝は日本大学で13時間45分05秒、2位は2分46秒遅れで慶應、早稲田は慶應より1時間近く遅れ7位であった。
この駅伝はかって「幻の箱根駅伝」と言われたが『箱根駅伝80回大会記念誌』には“戦勝祈願”の靖国―箱根往復 戦時下、3年ぶりに開催とあるように、正式大会と認められた。
その18日後の早慶駅伝だけに両校とも疲労が癒えずに走った選手が多く、慶応のアンカー荘田も足痛をこらえてゴールに飛び込んだ。慶応の塾長小泉信三が宮ノ下で選手を応援したという記事を読んだ記憶がある。
慶応は前年11月の奥多摩渓谷駅伝に出場、日大に次いで2位になっており早慶駅伝に向けて準備を進めていた成果と言える。
またこの年5月9日に日吉で行われた早慶陸上は早稲田30点、慶応27点と接戦で終わり、これが戦前では最後の大会となった。


第6回 昭和19年(1944)2月13日
2月14日の朝日新聞の13日の錬成(運動に変って使われた)欄に
◇早慶百キロ駅伝(於甲州街道)  慶大 5時間34分05秒
とあるだけである。
慶応の部史には神宮プール前~浅川駅間往復58マイル92.8キロとあり、優勝 慶応義塾 でタイムなし、選手名だけが書かれている。
どちらも早稲田はタイムも選手名も不明、戦時下で運動と言えば大相撲だけの時代によく甲州街道で駅伝が出来たものだと驚くだけである。


第7回  昭和22年(1947)1月19日
神宮プール前~浅川駅往復 8区間58マイル
 優勝  早稲田大学  5時間23分51秒
 2位  慶應大学  5時間35分05秒

20日の朝日新聞には早大優勝 対慶大駅伝の見出しで、「第七回早慶対抗駅伝競走は三勝三敗の後を受けて19日午前9時から神宮プール前―浅川駅往復58マイルのコースで行われ早大11分余を離して優勝」と記している。

実は1月4~5日に10校が参加して復活第1回の箱根駅伝が行われた。
優勝は明治大学で14時間42分48秒、2位は57秒差で中央大学、3位は慶應、4位は早稲田、アンカーで明暗を分け5分36秒の差がついた。

その15日後に早慶駅伝が復活した。
その裏話として『早稲田大学競走部七十年史』から遠藤昌宏の手記を紹介する。

戦争が終わってシンガポールから帰還した遠藤は昭和21年9月15日の早慶陸上の前日に上京した。しかし早慶戦は31対19で慶応に大敗、復活した箱根駅伝は増上寺前で慶応に抜かれ4位に甘んじた。以下はその手記である。
「何といってもやはりまず勝つことを覚えさせなければだめだと思い、手はじめに1月の早慶駅伝の復活を計画した。慶応もすぐに話に応じてくれ、戦後復活1回目の早慶駅伝がおこなわれることになった。(中略)当日私は自転車で最後まで一人で伴走した。エントリーの結果は、第1走者が早稲田は大塚君、慶応は伊藤君と箱根の宿敵同士の対決となった。「今度は絶対に負けるんじゃないぞ。増上寺を忘れるな。私の自転車に付いて来い。よしというまでとばすんじゃないぞ」(中略)あと500mとうところでスパートさせた。案の定あっという間に50mばかり差がついて第2走者へ。結局この差は最後まで縮まらず、アンカーの小野君は悠々テープを切った」
これを見ると遠藤の母校愛が早慶駅伝の復活につながり、自転車で伴走した遠藤の檄が早稲田に勝利をもたらしたといえるだろう。
昭和14年に始まり終戦を挟んで全7回行われた早慶対抗駅伝は早稲田の4勝3敗
で幕を閉じた。資料が少なく不明な点が多いが戦時下で公道を走る早慶駅伝がよく続いたことに驚くと共に、厳しい環境の中で走ることを追い求めた両校の選手に心から敬意を表したいと思う。

2022年の第98回箱根駅伝の復路7区で早稲田と学生連合で走る慶応の選手が殆ど同時に襷渡しをした。早慶の競り合いとは違うが箱根駅伝でWとKのユニフォームが並んで走るのは昭和10年代以来のことではないだろうか。この写真に背中を押されて知られざる早慶駅伝を発掘した訳である。

しかし、箱根駅伝に参加しない早慶両校が対抗駅伝をするのは筋が通らないという意見があったのは確かである。それを承知の上で、両校の絆の深さを物語る歴史として紹介した次第である。
箱根駅伝は2024年に100回目を迎えるが、予選会に関東学連に所属していない大学の参加を認める時代になった。テレビ中継のお陰で正月の国民的行事になった箱根駅伝だが、長い歴史の陰で良きライバルのプライドを賭けた「早慶対抗駅伝」があったことは記憶に残すべき出来事である。

 早慶対抗駅伝の記録

第1回 昭和14年(1939年)2月5日
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神宮競技場前~武蔵野往復 5区間 26マイル(41.8K)
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優勝  早稲田大学A  2時間15分17秒       辻 秀雄・ 林 和引・ 山崎正八・ 中島敏矩・ 村田慶三郎
2位  慶応大学A  2時間21分56秒     山岡 勉・飯島 正・安田日出弥・今村省三・山本一磨
3位  早稲田大学B  2時間25分03秒       
4位  慶応大学B  2時間35分21秒       

第2回 昭和15年(1940年)1月28日
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多摩御陵前~神宮競技場  5区間 45K
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優勝  早稲田大学A  2時間43分33秒       瀬崎六郎・山崎正八・岡崎俊夫・森棟隆康・辻 秀雄
2位  慶応大学A  2時間44分42秒      荘田恒雄・山本一麿・飯島 正・山岡 勉・落合静雄
3位  早稲田大学A  <記録不明>    
4位  慶応大学B  <記録不明>    

第3回 昭和16年(1941年)1月26日
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神宮参宮橋~多摩御陵  8区間 58マイル(92.8K)
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優勝   早稲田大学   3時間53分30秒       松下辰午・岡崎俊夫・石田芳正・森田武夫
         瀬崎六郎・黒川武二・森棟隆康・山崎正八
2位  慶応大学   3時間59分26秒    狩野英常・山本一麿・斉藤静雄・伊達 博
         安田日出弥・野口福次・落合静雄・山岡 勉

第4回 昭和17年(1942年)1月11日
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神宮参宮橋~多摩御陵  8区間 58マイル
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優勝   慶應大学  5時間22分00秒      岡 博治・寺田博充・山本一麿・落合静雄
         伊達 博・野口福次・木村  ・狩野英常
2位   早稲田大学   5時間24分53秒    石田芳正・松下辰午・野田佳穂・三木重雄
         蛯名邦雄・河岡徳寿・小野嘉雄・岡崎俊夫

第5回 昭和18年(1943年)1月24日
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神宮参宮橋~多摩御陵  8区間 58マイル
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優勝   慶應大学  5時間17分22秒       寺田博充・狩野英常・高島陽・落合静雄
         伊達 博・廣橋 実・岡 博治・荘田恒雄
2位   早稲田大学  5時間30分56秒    金尾勇・大西 弘・望月尚夫・遠藤 実
         小野嘉雄・和田和男・蛯名邦雄・岡崎俊夫

第6回  昭和19年(1944年)2月13日
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神宮プール前~日野町折り返し往復8区間58マイル
※朝日新聞には早慶百キロ駅伝(於甲州街道)とある
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優勝   慶應大学  5時間34分05秒       伊藤正治・曽田正雄・間中 亨・山中克己
         塩田年丸・猪股東三・村田玄二・児玉孝正
2位   早稲田大学  記録・走者不明    
         

第7回  昭和22年(1947年)1月19日 
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神宮プール前~日野町折り返し往復8区間58マイル(92.8k)
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優勝   早稲田大学  5時間23分51秒       大塚良一・佐藤直美・高倉辰夫・濱部憲一
         山口清次・桐谷重夫・小野嘉雄・後藤秀夫
2位   慶應大学  5時間35分05秒    伊藤正治・島田清信・林 正久・長戸
         曽田正雄・塩田年丸・桑山正三・岡 博治


通算成績  早稲田大学 4勝  慶応大学  3勝


【注】資料については後援した朝日新聞(縮刷版)の記事を基に作成した。メンバー名については慶應大学の資料も参照したが、一部姓だけの選手がいることをお断りしておく。